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<半兵衛のひとりごと07>
「日常言語と詩的言語」

「日常言語と詩的言語」

人は自分の考えを伝えるのに言語を使います。
国によって使われる言語は違うものの、言語がコミュニケーションのための便利な道具であることは世界共通だと思います。
普段私たちが使っている道具としての言語を「日常言語」と言います。日本人は日本語という共通のルールを知っているから、思いを言葉に変えて人に伝えることができます。
一方で、ルールからやや逸脱した言語もあります。「詩的言語」と言います。詳しくは言語学の入門書に分かり易く書いてありますのでここでは割愛しますが、これが、20世紀初頭から飛躍的な革新を遂げた芸術論に大きな影響を与えるものだったのです。

簡単な例を挙げてみましょう。
絵画は、描きたい対象をより正確にキャンパスに写し取ることで評価されます。対象は伝えたい内容(思い)であり、それを絵にして人に伝えるわけです。
上手に描ければ、受け取った人は何が描かれているか理解できます。コミュニケーション成立です。よりリアルに描くことが便利な道具として評価されるのです。では、写真が発明されたら絵画は必要なくなるのでしょうか?そうではありません。

そもそも言語の仕組みには「意味するもの(言葉)」と「意味されるもの(内容)」があり、その間には「恣意性」があります。国によって言葉が違うのもそのためです。そこが不便なようで実は面白いところでもあるのです。
このことは芸術論の入門書でもよく見かける内容なので、ここでは触れませんが、ピカソの分析的キュビズムから総合的キュビズムへの流れや、シュールレアリズムのコードとメッセージの戯れ、更にはロシア・アヴァンギャルドの取り組みは衝撃的です。理論的背景を知ると見方が変わると思いますので、機会があったら是非調べてみてください。

では建築に置き換えてみるとどうなのか、と思われるでしょう。
建築には更に面倒な制約があり、少々複雑になります。理論が難解になり敬遠されがちですが、簡単な例を出してみます。モダニズムの頃の考え方だと、言語の「意味するもの」と「意味されるもの」の関係を「形態」と「機能」に置き換えるのが自然でした。実際にはそんなに簡単なものではありませんが。

クライアントの要望(機能)を建物(形態)に置き換えるのが建築家の仕事です。
同じ要望なのに、建築家が変われば別の案が出来上がります。機能と形態の関係は、言語と同様、恣意的なのですから当然です。
そこで、その関係を厳密にルール化することでモダニズムという一大ムーヴメントが起きました。目指すのは、無駄を排除した機械のような建築というわけです。合理性を重視することも、それはそれで社会貢献です。今でもその考えは間違いではないと思いますが、元々簡単にルール化できるものでもありません。時代の変化とともにニーズも多様化し、複雑化していきますから。
ミースの「Less is more」もヴェンチューリに掛かれば「Less is bore」にされてしまうのです。

詩的言語は日常言語というルール(ものさし)から逸脱したものですが、これがパラダイムシフトに必要な「余白」になることを、先人たちは示してきたのです。絵画では、写真では扱えない逸脱部分を描くことができるのです。
芸術論は証明する必要のないひとり言なので、他分野よりも早く成果を上げることができます。かつてロシアが芸術家を擁護(監理)したのも分かります。建築も様々に変化するニーズに対応するためには、新たな「ものさし」をつくるための「余白」に着目する必要があるのです。

 

【追記】

詩的思考はあらゆる分野でその片鱗を垣間見ることができます。建築における詩的言語とはどういうものなのか、また、その考え方自体がどうなのか、考えてみると面白いかもしれません。

かつて建築家ピーター・アイゼンマンの論文「建築と修辞的形象の問題」の記述の中で、建築では日常言語の透明性が異質であることから、独特の詩的言語の在り方について言及されていました。その後も私の師である藤井博巳とともに、お互い影響し合いながら奇抜な作品を創り出していました。それはまるで建築という枠組みさえも解体していくようでした。

時代の変化とともに価値基準も変化していきます。「不易流行」という言葉があります。変化していくものと不変のものが混在している状況を、二つの対立要素として捉えるのではなく、変化そのものが普遍性を有しており、根は同じという日本的な考え方です。「日常言語」と「詩的言語」という便宜上の対比は、対象を分析する際にはとても便利な方法ですが、本質を見失わないように気を付けなければなりません。また、言語学・記号論などもう古いという人もいますが、古いのはその価値を測る「ものさし」のほうかもしれません。人は言語から逃れられないのですから。

詩的思考は、既存の「ものさし」を見直すきっかけになり得るものです。既存の「ものさし」で測れない「余白」の発見が、その「ものさし」の不完全性を示すきっかけになるのです。「境界を解体する」という考え方は、意図的にそれらを創り出す手法でもあり、古くは伝統的な日本建築にも見られます。内と外の中間領域となる場が、その象徴ともいえます。難解になりがちな芸術理論も、実は現象(結果)としては私たちの身近にたくさんあるもので、決して一部のアヴァンギャルドたちによる知的ゲームではありません(普遍性を探求する創り手はある程度の難解さは覚悟しなければなりませんが)。

詩的思考の一側面として、それは常に私たちの言語活動に寄り添っています(言語の特性上そうなるのですが)。今まで当たり前に思っていたことに違和感を覚えることはありませんか?そんな時は詩的思考を巡らすのもいいかもしれません。