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<半兵衛のひとりごと04>
「理論不在の建築」

「理論不在の建築」

余談ですが、残念ながら芸術を理論として学ぶ場の少ない日本では、今でも多くの人が芸術というものを誤解しているようです。類い稀な感性を持ち合わせた天才(奇人変人)が奇抜な作品をつくるものだと。
確かに話題性が商売になる時代では、それも一概に否定できません。ファッションとして生産・消費のサイクルを生み、経済活動に貢献しているのですから。

自称アーティストたちの大半の作品は、本人は奇抜なものをつくったつもりでも、たいていは既存のカテゴリーに簡単に振り分けられてしまいます。
人はそれまでの経験あるいは学習したことからしか新たな発想ができないものなので、これも仕方ありません。だから本当に奇抜な作品をつくる人は、人と違う環境で育った奇人変人という風に見えてしまうのです。

一方で、歴史に残る作品を残したアーティスト、特に20世紀初頭のアヴァンギャルドの多くは、多少変人気質はあったかもしれないものの、生粋の理論派ばかりです。感性だけで行き着く先には限界があります。
そもそもそこには作品の評価基準さえもありません。好き嫌いの話しかできないのです。売れる、売れないといった低俗な世界です。

しかし、理論を積み重ねて進化する道を貫けば、凡人にも高みに到達することができるのです。先人たちのおかげでスタート地点がすでに高いのですから、あとは時代の変化に合わせながら論理的に積み上げるのみです。
しかもその成果は、各分野で応用可能な、人間の思考のメカニズムに迫る理論であることが多く、汎用性が高いと言えます。
ひとりよがりの自己表現のファッションアートとは一線を画し、価値基準が構築できるものなので、大げさに言えば人類のためなる研究でもあるのです。残念ながらその理論は難解であることが多く、人に理解されずに埋もれていく傾向にあります。
先人たちが血と汗にまみれて解き明かしてきた理論を埋もれさせることは、人類にとって大きな損失です。

 

また、今まで難しいことを避けてきた今時の専門家のスキル低下も問題の一つです。建築教育にも問題があります。
大学1年生で古典主義建築から学び始めると、4年間ではせいぜいモダニズムにまでしか辿り着かず、そのまま卒業ですから現実世界とギャップが生じて当然です。
そもそもギャップを感じるほど勉強した学生がいるのかも疑問ですが。彼らにとってポストモダン以降はファッションの変遷でしかありません。本物の建築家を志す学生は独学するしかないのです。
現在は大学によっては少し変わってきたようですが、本質はどうでしょう?

80年代には、向上心の高い学生でも、当時の難解な理論について行けなくなる人が大半で、その結果、奇妙な現象が起こり始めました。「建築に理論は不要」という考えを持つ学生が増えてきたのです。きっかけはおそらくレム・コールハース(オランダの建築家)の著者でしょう。彼は、どんな有益な理論も大衆の前では消費の波に呑まれてしまい、一過性のファッションにされてしまうことを嘆き、「もう建築に理論など必要ない」と皮肉を込めて言ったのです。
ところが、都合のよい逃げ道を見つけた学生たちが、その言葉だけを切り取って一気に信者を増やしていったのです。コールハース氏自身は紛れもなく理論派の建築家なのですが。
こうして、難解な理論を掲げるスタイルさえもファッション化されてしまい、理論派の継承者はマイノリティとなっていったのです。
その時代に学んだ学生たちが、今、大学で教える立場になっています。ポストモダン以降のさらに難解な理論など語れるわけがありません。一部のマイノリティ側の人を除いては。根は深いようです。

もちろん、今の時代に合ったやり方でいいじゃないかという考え方もあります。そこから新しいものもちゃんと生まれているのですから。
問題は、当時の理論の一部が、今になって歪んだ解釈のもと、商売に応用される例が増えてきたことです。営利目的の心理誘導がその一つです。SNSの普及により一気に加速している感があります。
大衆の消費行動まで企業によってコントロールされているわけです。幸か不幸か、今時の若者はそのことに抵抗がないようです。恐ろしいと思うのは私だけでしょうか?

すべてが倫理的に問題のあるものばかりではありません。有益なものもたくさんあります。利用する側が選択できるのです。
無知を自覚するだけでも、その後のリスクは回避できるのかもしれません。そして、選択する自由には、常に責任が付いて回ることを忘れてはいけません。

 

(追伸)
「半兵衛のひとりごと」シリーズは、編集の都合上、大幅に内容をカットしてあります。補足説明がないため、誤解を招き兼ねない記述も多々あると思います。お気を悪くされる方もあるかも知れませんが、あくまで「ひとり言」とご理解いただき、何卒ご容赦願います。